永谷園の舞台裏
永谷園の知られざる舞台裏。
商品誕生までの秘話などを年表形式でご紹介します。
はじめに
創業以来、永谷園は、お客さまに思いを馳せ、
私たちにできることを考え抜き、
そういう商品を世に出し続けてきました。
「味ひとすじ」
その想いは今も昔も変わりません。
商品誕生秘話と知られざる永谷園の歴史を
ご紹介します。
1738年
おいしいお茶の始まり
1738年 (元文3年)
永谷宗七郎が煎茶の製法発明!
永谷園の起源は、江戸時代中期、山城國宇治田原郷字湯屋谷で製茶業を営んでいた永谷宗七郎(後に入道して永谷宗円と名乗る)にさかのぼる。宗七郎は煎茶の製法を発明し、日本茶の歴史に大きな功績を残した人物である。
1738年 (元文3年)
永谷宗七郎が煎茶の製法発明!
永谷園の起源は、江戸時代中期、山城國宇治田原郷字湯屋谷で製茶業を営んでいた永谷宗七郎(後に入道して永谷宗円と名乗る)にさかのぼる。
宗七郎は煎茶の製法を発明し、日本茶の歴史に大きな功績を残した人物である。
■もっとおいしいお茶を作りたい
ときの将軍は、八代・徳川吉宗。その頃よく飲まれていたのは「煎じ茶」。
ところがこれが、色は赤黒く香りも味も薄い、決しておいしいとはいえない代物だった。一方、抹茶はというと、その販売は一部の茶師(茶の生産・販売をなりわいとする者)によって厳しく管理されていたので、庶民にとって高嶺の花だった。
永谷宗七郎はお茶の生産に携わる者として使命を感じた。
「もっとおいしいお茶を一般の方にも飲んでもらいたい。そうだ、つくればいいのだ。」
そして、宗七郎は15年もの歳月をかけ、さまざまな研究を重ねた後に今でいう「煎茶」の製法を完成させた。
それまでよく飲まれていた煎じ茶は、若葉・古葉を残らず摘み取り、灰汁で煮た後、よく絞って粗く揉み、日乾や風乾で仕上げる方法をとっていた。
宗七郎の完成させた製法は、まずその年の新しい葉だけを摘み取り、それを蒸し、その後に指で揉みながらホイロ(乾燥炉)の上で乾燥させるというもの。つまり、加熱して酵素の働きを殺すことにより、褐色化が抑えられ、緑色のままの茶葉になったのだ。
こうしてできたお茶は、美しい薄緑色をした、芳しい香りとわずかな甘みのあるおいしいお茶だった。特にその色合いがそれまでの煎じ茶に対して印象的であったことから、「青製煎茶」と呼ばれた。
■このお茶を天下に広めさせたまえ
宗七郎は完成したばかりの煎茶をひっさげ、販路を求めて大都市江戸に向かった。
江戸への道中、富士山に登り、「このお茶を天下に広めさせたまえ」と祈ったと伝えられている。
江戸到着後、宗七郎は煎茶を多くの茶商に売り込む。
従来の煎じ茶とは異なることから大方の反応は鈍かったが、その中で煎茶の価値を認めたのが日本橋の茶商・山本嘉兵衛(現在の山本山)であった。
嘉兵衛はこのお茶を「天下一」と名付けて販売し、たちまち江戸中で評判となる。これにより山本家は大いに隆盛し、永谷家に謝礼として明治時代まで毎年小判25両を贈り続けたという。
また、宗七郎は自ら開発した新製法を独占せず、惜しみなく多くの人に伝授し、青製煎茶は次第に全国の生産地に広がっていった。
さらに幕末になると、煎茶は生糸と並ぶ日本を代表する輸出品として欧米各国にも受け入れられていった。
1778年、宗七郎は98歳でその生涯を閉じた。
宗七郎の偉業は後世に語り継がれ、地元の宇治湯屋谷では「茶宗明神」として祀られている。現在でも茶宗明神には毎年多くの茶業関係者が参拝に訪れている。
こうして、宗七郎が富士山の頂で祈った「このお茶を天下に広めさせたまえ」という思いは、場所を越え、時間を超え、たくさんの人々に届いたのであった。
1952年〜1999年
お茶づけ海苔発売・永谷園創業~
1952年
〜1953年
(昭和27~28年)
「お茶づけ海苔」誕生!
1952年に発売され、大ヒットを遂げた永谷園の「お茶づけ海苔」。その大ヒットの裏側にはいったい何が隠されているのだろうか。取材を進めていく中で知られざる真実に迫ることができた。
1952年〜1953年 (昭和27〜28年)
「お茶づけ海苔」大ヒットの裏側!
1952年に発売され、大ヒットを遂げた永谷園の「お茶づけ海苔」。
その大ヒットの裏側にはいったい何が隠されているのだろうか。
取材を進めていく中で知られざる真実に迫ることができた。
■「お茶づけ海苔」の誕生
1953年に株式会社永谷園本舗を設立した永谷嘉男は、わが国の煎茶の創始者、永谷宗七郎からつながる由緒あるお茶屋の家系である。
戦後、宗七郎から数えて10代目にあたる永谷嘉男が、「小料理屋の〆で食べるお茶づけが家でも簡単に食べられたらいいのに」という発想で開発したのが「お茶づけ海苔」である。
「お茶づけ海苔」は、中身は調味粉、刻み海苔、あられを合わせたもので、すべて手作りの作業。アルミ箔もポリエチレンもない時代だったので、海苔が湿気らないよう袋を二重にして、そこに石灰を敷いた瓶に100袋ずつ詰めた。
ネーミングは、シンプルな名前がいいと「お茶づけ海苔」に決定。
「づけ」は漢字にしないとか、「海苔」は漢字にするなど、細部まで気をつかって名づけた。
デザインは、お茶づけから連想した“江戸の情緒”をイメージし、歌舞伎の定式幕になぞらえた黄・赤・黒・緑の縞模様を採用した。
■大ヒットに至るまでの苦労
発売当初は、自転車の後ろにリアカーを引いて、お茶屋を一軒一軒回って納品した。すると、カラフルなパッケージが店頭で目を引き、予想を上回るヒットとなる。
続いて、問屋を通じてデパートに納入を始めた。今までにない商品であるため、店頭で実演販売を行い、商品認知に努めた。そのかいあって、売上は好調だった。
ところがある日、デパートからの注文が急に途絶えてしまう。「お茶づけ海苔」の人気に目をつけた同業者が類似品を作って販売していたのだ。
当時のパッケージには「江戸風味 お茶づけ海苔」と印刷されているだけであり、類似品が出回っても文句は言えなかった。この事件を機に、嘉男はブランドの重要性を認識し、パッケージに「永谷園」と印刷するとともに永谷園ブランドの確立に努めた。
こうした苦労を重ねながら「お茶づけ海苔」は順調に売上を伸ばし、全国的なヒット商品に成長するのであった。
1964年 (昭和39年)
「松茸の味お吸いもの」誕生!
1964年10月。日本中が沸いた東京オリンピックと時を同じくして、永谷園を代表するロングセラー商品「松茸の味お吸いもの」が誕生した。
1964年 (昭和39年)
あの松茸の風味を手ごろで簡単に
1964年10月。日本中が沸いた東京オリンピックと時を同じくして、
永谷園を代表するロングセラー商品「松茸の味お吸いもの」が誕生した。
■「今日も松茸、明日も松茸」の日々
「『松茸の味お吸いもの』の味作りのポイントは、風味をバランスよく整えることでした。原材料を選定し、それぞれの調味を分解してひとつひとつ吟味。変な風味のものがあったら取り除いていく、地道な作業をこつこつと進めました。」と開発担当者は語る。
一日に10~20回試食を重ね、「今日も松茸、明日も松茸」の日々。
贅沢なようにも聞こえるが、開発担当者は少々食傷気味になったことも。
一番の難関は、味のベースとなる調味顆粒の製造だった。食塩、砂糖、エキス類などを混合して顆粒状に加工するのだが、原料の配合や混ぜ方によって出来上がりが全く異なり、うまく形にならなかったり、顆粒が固すぎてお湯を注いでも溶けないものになってしまう。
条件を変えながら幾度となく試作を繰り返した。
■アレンジレシピ提案で市場に浸透
発売にあたっては、どういう風にPRしていくかも社内で議論された。
お吸いものは、もともと関西では「すまし」といわれ定着していたが、関東ではみそ汁中心であまり飲まれていなかった。そこで、飲むのではなく、「餅を入れて雑煮感覚で食べてもらう」とか「炊き込みご飯にする」などのアイデアを、CMを通じて提案した。現在では当たり前になっているアレンジレシピの提案は、実は発売当初から行われていたのだ。
これが結果的に功を奏して、「松茸の味お吸いもの」は、松茸の高級イメージもあいまって、香りが楽しめるお吸いものとして着実に伸びていった。
1967年 (昭和42年)
永谷園が乾海苔の入札権を取得
1967年、永谷園は乾海苔の入札権を取得。全国の漁連で入札に直接参加して、乾海苔の買い付けができるようになった。これは食品メーカーの中でも、数少ない例だ。
1967年 (昭和42年)
永谷園が乾海苔の入札権を取得
1967年、永谷園は乾海苔の入札権を取得。
全国の漁連で入札に直接参加して、乾海苔の買い付けができるようになった。
これは食品メーカーの中でも、数少ない例だ。
入札日の早朝、購買担当者は、ずらりと並んだ海苔のサンプルを、真剣なまなざしで品定め。良質な海苔を仕入れるために、多くの海苔問屋のプロたちと真剣勝負を繰り広げる。 そんな、永谷園の購入担当者に「海苔」を選ぶ際のポイントを聞いてみた。
ポイント1 焼色が深緑色で風味がある。
「乾海苔は天産物。養殖技術は発達したものの、気象条件や採る時期などで品質が異なります。さまざまな品質の中から、焼き色が深緑色で風味があるものを選び買い付けます。」
ポイント2 お湯をかけても溶けにくい。
「養殖方法の違いにより、乾海苔にはお湯をかけると、すぐ溶けてしまうものがあります。お湯を注いでも、見た目のおいしさを味わえるように、永谷園では溶けにくい海苔を選定しています。」
ポイント3 硬くて重量がある。
「海苔は硬い方が、加工歩留(焼き~刻み)が良く、お湯をかけた時に溶けにくくなります。お湯を注いだ時のことを考えて、硬くて重量がある海苔を選びます。」
こうした担当者の厳しい目によって、永谷園の海苔は品質を保ち続けているのだ。
1970年 (昭和45年)
「さけ茶づけ」開発!
「お茶づけ海苔に続くヒット商品を!」ということで開発された「さけ茶づけ」。
鮭の加工品自体が珍しかったこの時代、さまざまな困難を創意と工夫で克服した、じつに永谷園らしいヒット商品であった。
1970年 (昭和45年)
ヒットの方程式を確立した「さけ茶づけ」
「お茶づけ海苔に続くヒット商品を!」ということで開発された「さけ茶づけ」。
鮭の加工品自体が珍しかったこの時代、さまざまな困難を創意と工夫で克服した、
じつに永谷園らしいヒット商品であった。
■フレーク化、乾燥、骨取り、難関だらけの鮭の加工
最初の難関は、鮭の身をフレーク状にすることだった。当初は鮭を水の中に入れて手でほぐしていたが、どうしてもミンチ状になってしまいうまくいかない。
そこで、ほぐした鮭の身のフレークを機械にかけてプロペラで回転させることで、一定のフレーク状にすることに成功した。
乾燥方法は、当時一般的だった熱風乾燥ではなく、加工食品ではあまり例のない真空凍結乾燥(フリーズドライ)を採用。フリーズドライはお湯を注いだときの戻りがよく味や食感の再現性が高いのが特長であるが、鮭のような脂肪分が多い食材は油焼け(脂肪が酸化して風味が落ちること)を起こすために不向きとされていた。
しかし、担当者は試行錯誤を重ねながら鮭の加工方法を工夫し、ついに鮭の旨みを逃がすことなくフリーズドライする技術を開発した。
鮭の骨取りも難航した。発売後しばらくは手で取り除いていて、効率の悪い状態だった。骨を除去できる機械はないものかと知恵を絞り、ヒントとなったのが精米するときに使う米選機。これを元に鮭の骨取りの機械化に成功した。
■CMの話題性と品質のよさで一気にヒット商品に
困難を一つ一つ克服し、ついに「さけ茶づけ」が完成。
1970年、まずは九州地区でテスト販売されることになった。九州ではあまり鮭を食べる習慣がなく、「九州で売れれば全国で売れるはずだ」という判断であった。セールスはサンプルを携え取引先を一軒一軒回ったが、「サケ?アルコールのことかい?」などと言われたり、フリーズドライの技術も一般には知られておらず説明に苦労したりと商談は難航した。
しかし、発売後は状況が一変する。北島三郎さんを起用したCMのインパクトに加え味のよさが評判となり、店頭では商品が飛ぶように売れていった。九州で成功を収めた「さけ茶づけ」は順次販売エリアを拡大し、翌年には全国的なヒット商品となった。
「さけ茶づけ」を皮切りに、「梅干茶づけ」(1972年)、「あさげ」(1974年)、「すし太郎」(1977年)など、永谷園を代表するロングセラー商品が続々と誕生。おいしさにこだわった妥協しない味作りと、消費者の興味を喚起するインパクトのあるCM。この両輪が回って、永谷園は一気に成長軌道に乗る。「さけ茶づけ」は、永谷園がヒットの方程式を確立した記念すべき商品となった。
1974年 (昭和49年)
「あさげ」開発!
インスタントものは「安かろう、まずかろう」というイメージが主流の時代。
これを覆すべく、永谷園は「手作りに負けないおいしい高級みそ汁」の開発に着手した。
1974年 (昭和49年)
インスタントのイメージを覆した「あさげ」
インスタントものは「安かろう、まずかろう」というイメージが主流の時代。
これを覆すべく、永谷園は「手作りに負けないおいしい高級みそ汁」の開発に着手した。
■みそ、具材、パッケージ。あらゆる面で高級感を訴求
当時のインスタントみそ汁は熱風乾燥のみそが主流。熱風乾燥は安価にできるものの、独特の乾燥臭、粉っぽさがあり、生みそとは程遠い味だった。
そこで、コストはかかるものの風味が損なわれない真空凍結乾燥(フリーズドライ)製法を採用することに。全国各地からみそを取り寄せ、フリーズドライに最も適したみそを選び出した。
具材も、庄内地方の特産品である板麩、食感も色合いもよいわかめ、フリーズドライの葱など高級なものを使用。味の決め手となる鰹節の品質にも妥協しなかった。
パッケージは、百数十点におよぶ候補の中から、ぬくもりのあるちぎり絵と力強い筆文字を組み合わせた高級感のあるデザインを採用した。ちなみに、ネーミングの「あさげ」は「朝食」を意味する昔のことばである。
■通常の4倍の価格が果たして受け入れられるのか?
品質に妥協することなく、高価な原材料を惜しみなく使用した「あさげ」。
さらに当時はオイルショックによる急速なインフレの真っただ中で、コストはみるみる上昇し、最終的に設定した価格は、1袋40円(4袋入160円)と、当時の一般的な即席みそ汁(1袋10円程度)の4倍というとんでもないものに。
「こんなに高い商品が果たして受け入れられるのか」と不安視する声が多いなか、1974年2月に「あさげ」は発売された。
そんな心配をよそに、「あさげ」は好調な売れ行きを記録。落語家の柳家小さん師匠と女の子によるコミカルなCMも大きな話題となった。購入者アンケートでは、CM中の柳家小さん師匠のせりふ「これでインスタントかね?」の通り、「家庭で普段飲んでいるみそ汁よりもおいしい」という声が多く寄せられた。
「あさげ」のヒットを受けて、1975年6月に「ゆうげ」、1976年2月に「ひるげ」を相次いで発売。みそ汁市場は一気に活況を呈するのであった。
1977年 (昭和52年)
初のウェット商品「すし太郎」発売!
1977年 (昭和52年)
永谷園初のウェット食品「すし太郎」発売!
1976年当時、子どもの食べたいメニューベスト3は、カレー、ハンバーグ、寿司。
その寿司に着目して、永谷園は開発プロジェクトを結成した。
月に5~6回メンバーが集まり、「食べたいときに食べられる」をコンセプトに、いろいろなアイデアを練る。
永谷園としては、初めてのウェット食品の分野。他社メーカーの商品をあれこれと試食し、手軽に食べられるお寿司のアイデアを発案した。
そして、開発から約4ヶ月・・・
1袋1人前「すし太郎」のアイデアが出された。しかし、初めてのウェット食品だけに、工場でも作業は難航。にんじん、しいたけ、れんこん、かんぴょうを1袋に入れるとき、機械ではばらつきがでて、うまくいかない。そこで、当初は、ひとつひとつ茶こしで具をすくって計量し、手作業で袋に詰めるという、とても大変な作業をしていた。その後、甘酢の量を減らしたり、具のつなぎ方を考えたりと試行錯誤し、この問題もなんとか解決。
開発プロジェクトを結成して約1年後に「すし太郎」は発売され、大ヒット商品になるのであった。
1979年 (昭和54年)
“ぶらぶら社員”制度誕生
「時間も自由!経費も使い放題!お前、ちょっとぶらぶらしてこい!」…こう言われたら、あなたならどうする!?
ある意味サラリーマンとして夢のような話に聞こえるが、その実態は・・・?
1979年 (昭和54年)
世間も仰天!
前代未聞の“ぶらぶら社員”誕生!
「時間も自由!経費も使い放題!お前、ちょっとぶらぶらしてこい!」
…こう言われたら、あなたならどうする!?
ある意味サラリーマンとして夢のような話に聞こえるが、その実態は・・・?
この驚きの制度の実態と、その初の事例として白羽の矢が立ったA氏に迫った。
■ヒット商品を生み出し続ける社長ならではの秘策
ある日社長室に呼ばれたA氏。そこで聞いたのは、社長の信じられない言葉だった。「出社は自由。経費も自由に使っていい。レポートもいらない。食べたいものを食べてこい。」・・・そう言われて驚かない人間などいるだろうか。
もちろんA氏も、当初は訳のわからぬまま、社外に放り出されることとなる。
実は、食品会社にとって非常に大切なことの一つが、「ヒット商品を生み出す」ということ。商品開発力がその企業の明暗を分けると言っても過言ではない。そのことを誰よりも実感していたのが、社長の永谷嘉男だった。
永谷園本舗設立のきっかけとなった「お茶づけ海苔」をはじめ、「松茸の味お吸いもの」「すし太郎」など、経営者ながらアイデアマンとして、たくさんのヒット商品を世に出してきた永谷。そんな彼が実体験として感じていたのは、「よいアイデアが浮かぶのは、机に向かっている時だけではない」ということだった。
実際、仕事終わりの一杯のひとときや、おいしいものを食べて感動した時などに、ユニークな発想を得てきた彼は、そんな自分の分身のような存在を作ったら、思いがけないアイデアが生まれるのではないか、と考えたのだ。
そこで彼が白羽の矢を立てたのは、商品開発の実績があり、能力やセンスにも信頼のおけるA氏。「2年間で結果を出す」ことだけを約束に、“ぶらぶら”に送りだしたのだった。
■ごく普通のサラリーマンが、北へ南へ大豪遊?
この仰天の制度に、マスコミや世間の注目を浴びながらも、「結果」すなわち「新商品」のアイデアを探すため、A氏は戸惑いながら放浪を始める。
北は北海道から南は沖縄へと、おいしいものを求める旅。しかしおいしいものは数あれど、商品化に結びつくものには、なかなか出会えない。さらにアメリカ、ロシア、スイス、フランスなどの国外にも足を向け、さまざまな食文化を体験した。
2年間の放浪の末、彼が持ち帰った「アイデア」とは…? それは1981年11月、ついに実を結ぶことになる。
1981年 (昭和56年)
「麻婆春雨」誕生!
日本発の中華おかずの素「麻婆春雨」が完成。商品とともに、「麻婆春雨」という料理自体も、全国に広まっていったのである。
1981年 (昭和56年)
放浪のゴールは、世界で初めての味だった!「麻婆春雨」発売
「ぶらぶら社員」として、2年間の放浪の“仕事”を終えたA氏。彼が「新商品」のヒントとして持ち帰ってきたものは、一体何なのか? ついにその全貌が明らかになった!
話は少しさかのぼり、A氏放浪中の、とある料理屋。そこで彼は何の変哲もない「中華スープ」に出会う。『おいしいなあ、こってりしてるし、意外とご飯にも合いそうだ!』こう感じた瞬間、今まで重ねた放浪の経験が、「中華スープ」とあるものを結びつけた。
・・・それは、なんと「春雨」。
「中華スープ」と「春雨」、この2つが結びつくことによって、A氏の中で、今までにない、全く新しい商品が生まれた。「これだ!」
すぐさま日本に帰ったA氏は、浮かんだアイデアの商品開発に着手。それが、今ではすっかり定番中華となった「麻婆春雨」だったのである。そう、それまで「麻婆春雨」は世界のどこにも存在しない料理だったのだ。
A氏が持ち帰ったこのアイデアは、社内の評価も高く、周囲の協力もあり、迅速に商品化に至った。
かくして「ぶらぶら社員制度」発足から2年後の1981年11月、日本発の中華おかずの素「麻婆春雨」が完成。商品とともに、「麻婆春雨」という料理自体も、全国に広まっていったのである。
1985年 (昭和60年)
「広東風かに玉」誕生!
発想の転換から生まれたヒット
「広東風かに玉」の誕生秘話とは?
1985年 (昭和60年)
発想の転換から生まれたヒット
「広東風かに玉」の誕生秘話とは?
■「卵2個で天津丼」として開発スタート
メーカーにとって開発力は生命線。永谷園では、ヒットを目指して開発マンたちが日夜さまざまな新商品のアイデアを考え、試作を繰り返す。
そして、集まったアイデアの中から「これはイケる!」と判断されたものは社長に提出され、商品化の判断をあおぐのが通例となっていた。
そんなある日、数あるアイデアの中から社長の目に留まったものがあった。
それは、ある社員から寄せられた「卵2個で天津丼」というアイデアだった。卵そうざいの素が市場にあまりない頃のことだ。しかし、卵そうざいの素の可能性を感じていた社長は「卵だけで簡単にできるならば面白い」と開発を指示。
開発は順調に進み、モニター調査にかけられることになった。主婦の方々にサンプルを試食してもらい、評価がよければめでたく商品化の運びとなるのだ。
■まさかのモニター調査結果
「アイデアも味も問題ない。きっとお客さまにも受け入れられることだろう」
しかし、予想に反して調査結果はひどいものに。「商品が発売されても買わない」という意見が大半を占めた。
「味はおいしいが、価格が高すぎる」というのが大きな理由だった。「1人前で卵2個使用、価格は200円」という商品設計がネックとなった。
■コロンブスの卵!「天津丼」が「かに玉」に
天津丼としての開発は行き詰まってしまった。しかし、味の評価は高く、このまま捨てるには惜しい。何とかこのアイデアを生かす道はないものだろうか。
そのとき、新しいアイデアがひらめいた。「そうだ、ご飯に乗せる必要はないじゃないか!」
天津丼はかに玉がご飯に乗ったもの。天津丼からご飯をとれば、丼ではなく、みんなで食べられるメイン料理になるではないか。発想の転換から新しい道へ。「1人前で卵2個使用、価格は200円」の天津丼は、「2人前で卵3個使用、価格は同じく200円」のかに玉へと急ピッチで改良が進んだ。そして、2回目のモニター調査は難なくクリア。
「天津丼」からスタートした商品開発。紆余曲折はありつつも、1985年2月、ついにグリンピースの彩りが鮮やかな「広東風かに玉」が誕生したのだった。
1987年 (昭和62年)
「具入りチャーハンの素」大ヒット!
「チャーハンの素」市場は、具の入っていない粉末タイプが主流。
そんな中、「具だくさんでごちそう感のあるチャーハンを、家庭で手軽に」というコンセプトで開発を始めた。
1987年 (昭和62年)
卵一個でごちそうチャーハン!
「具入りチャーハンの素」大ヒット
「チャーハンの素」市場は、具の入っていない粉末タイプが主流。
そんな中、「具だくさんでごちそう感のあるチャーハンを、家庭で手軽に」というコンセプトで
開発を始めたのは永谷園だ。
「『具だくさん』ということで、最初はウェット具タイプが候補に上がりましたが、試作を重ねていくうちに、チャーハンの本当のおいしさは、具材よりも『ご飯のパラパラ感』や『卵が加熱されたときの香ばしさ』にあることがわかってきました。」と開発担当者は語る。
彼らが試行錯誤の末にたどり着いたのは具入りの粉末タイプで、家庭にある卵を1個利用するというもの。粉末タイプにすることで、粉末がご飯の水分を吸収し、パラッと仕上げることができる。さらに、永谷園がドライ食品で培ってきた味づくりの技術も活かせるという利点もあった。
パッケージにも工夫をこらし、皿に丸く盛りつけたチャーハンの形や、今にも口に運ぼうとするレンゲなど、おいしさの表現もオリジナリティを追求。今ではすっかり業界に浸透しているが、こうした表現を最初に始めたのは永谷園だったのだ。
開発時、「チャーハンの素」の市場規模は小さく、社内でも大したヒットは予想されていなかった。しかし、ふたを開けてみれば、「具入りチャーハンの素」は順調に売上を伸ばし、最終的に市場の実に2倍、3倍もの売上となる大ヒットを記録した。
「具入りチャーハンの素」は、全く新しい市場を創造したと言っても過言ではない。
オリジナリティを追求する永谷園の姿勢こそが、既存商品に満足していなかった消費者の潜在的ニーズに応え、大成功をおさめる最大の要因になったのだろう。
1989年 (平成元年)
大人も子どもも大満足の
「おとなのふりかけ」デビュー!
1989年 (平成元年)
大人も子どもも大満足の
「おとなのふりかけ」デビュー!
■「ふりかけ=子ども商品」という思い込みへの挑戦
ふりかけ市場でたくさんのメーカーがしのぎを削る中、永谷園も新たなヒット商品を世に送り出すために日々研究を重ねていた。
そんな時、担当者が消費者データを見直していたところ、興味深い事実に気づく。
「ふりかけは11歳までの子どもにはほぼ100%食べられている人気メニューでありながら、大人になろうとする12歳から急に需要が減少する」
つまり、消費者にとっては「ふりかけ=子ども商品」という図式があることが判明したのだ。
さらに、これは「出生率の減少」が将来のふりかけ市場に影響することも意味している。
今後ふりかけ市場が成長していくためには「ふりかけ=子ども商品」という既成概念を打ち破らなければいけない・・・・・・そう考えた担当者は、「子どもだけではなく、大人も満足できるふりかけ」をテーマとした新商品の開発プロジェクトを発足させた。
■素材・パッケージ・CMに込められた工夫
開発にあたっては「大人が満足するふりかけ」の条件をあらゆる角度から追求。
例えば海苔は、海苔本来の色鮮やかさや独特の風味を残すことにこだわった。またパッケージは、大きな白地の窓に「おとなのふりかけ」と黒字で入れ、高級感のあるものへ。
そしてCMは、「子どもの目から見た大人の世界を描く」というコンセプトで、子どもを主役に据えるという新しい手法にチャレンジ。このCMは大変話題を呼び、「おとなのふりかけ」の知名度を一気に高めた。
■どの世代にも支持されるロングセラー商品へ
1989年10月、地区限定で「かつお」「さけ」「わさび」の3メニューが発売された。店頭での試食販売では大きな反響があり、ひとりで2袋、3袋と購入する人もいるなど、それまでの商品にはない売れ行きに。1990年2月には全国展開し、各地で予想を大きく上回る売上を記録した。
販売データを分析すると、5歳から55歳までの嗜好者がほぼ均等で、男女も約半々で食べている結果に。「おいしいものなら年齢・性別関係なく受け入れられるはず」という開発者の信念がみごとに実証された瞬間だった。
1992年 (平成4年)
無限の可能性を秘めて!
社名とシンボルマークを一新
永谷園の新しいイメージの確立を目指し、プロジェクトチーム一丸となって作り上げた新しいシンボルマークは、永谷園の頭文字「N」と、無限大の記号「∞」を組み合わせてデザイン化したもの。無限の可能性をもった永谷園になろう、という思いを表している。
また、創立以来の社名「永谷園本舗」を「永谷園」と変更し、より親しみやすい社名となった。
1992年 (平成4年)
無限の可能性を秘めて!
社名とシンボルマークを一新
永谷園の新しいイメージの確立を目指し、プロジェクトチーム一丸となって作り上げた新しいシンボルマークは、永谷園の頭文字「N」と、無限大の記号「∞」を組み合わせてデザイン化したもの。無限の可能性をもった永谷園になろう、という思いを表している。
また、創立以来の社名「永谷園本舗」を「永谷園」と変更し、より親しみやすい社名となった。気持ちを新たに仕事に取り組む、社員の情熱が伝わってくるようだ。
1998年 (平成10年)
ヘルシー志向に応えた
「減塩みそ汁」誕生!
減塩しょうゆなど、「健康」を切り口にした商品が増える中、「毎日飲むみそ汁で健康を考えた商品ができないか」という発想から生まれた「減塩みそ汁」。塩分20%カットにもかかわらず、おいしさはそのまま。さらに具も「わかめ」「ほうれんそう」「とうふ」「納豆」など、健康感のある具材にこだわっている。
1998年 (平成10年)
塩分カットでも変わらぬおいしさ。
ヘルシー志向に応えた「減塩みそ汁」
減塩しょうゆなど、「健康」を切り口にした商品が増える中、「毎日飲むみそ汁で健康を考えた商品ができないか」という発想から生まれた「減塩みそ汁」。塩分20%カットにもかかわらず、おいしさはそのまま。さらに具も「わかめ」「ほうれんそう」「とうふ」「納豆」など、健康感のある具材にこだわっている。
このような、前例の無い「新しい時代のみそ汁」は、開発にも苦労が多かったのではないだろうか? 開発担当者から気になる開発秘話を聞くことができた。
「まずは、「『減塩』とは何か」というところからのスタートでした。前例がないので、まず『減塩』の基準を設定しなければならなかったのです。」
しょうゆは「塩分20%減」が「減塩」の基準だったことから、みそ汁も同様に20%減と定めた。続いて、塩分の平均値を出すために即席みそ汁の売れ筋数十商品を集めて塩分を算出したが、当時はパッケージに栄養成分がほとんど表示されていなかったために、1品1品成分を分析しなければならなかったそうだ。
ネーミングも相当苦労したようで、「思いやりみそ汁」など様々な候補があったそうだ。結果的には、「減塩みそ汁」という、ストレートな商品名に決まったが、おいしさ感を損なわないよう、明るいイラストなどパッケージに工夫をこらした。
前例がない商品だけに、味作りも難航した。
特に苦労したのが、減塩みそ汁用の味噌を探すことであった。当時は減塩タイプの味噌を生産しているメーカーがほとんどなく、試験生産の実績があった味噌メーカーの協力を得て、やっと生産がスタートした。
こうした苦労をのりこえて完成した「減塩みそ汁」は、パンクの若者が登場するなど、若者をターゲットにしたCMも功を奏し、幅広い年齢層に支持された。結果、即席みそ汁市場で、久々の大ヒットを記録したのだ。
2000年〜現在
永谷園のキャッチフレーズ
「味ひとすじ」に決定~現代
2003年 (平成15年)
食物アレルギーへの理解を深めるため「A-FREE委員会」発足
日本人の50人に1人が発症していると言われている食物アレルギー。子どもだけではなく、大人にも症例が見られ、近年ますます増加傾向にある。この問題に、食品メーカーの立場から真摯に取り組んでいるのが、永谷園だ。
2003年 (平成15年)
食物アレルギーへの理解を深めるため「A-FREE委員会」発足
日本人の50人に1人が発症していると言われている食物アレルギー。
子どもだけではなく、大人にも症例が見られ、近年ますます増加傾向にある。
この問題に、食品メーカーの立場から真摯に取り組んでいるのが、永谷園だ。
永谷園の食物アレルギーへの取り組みのスタートは、2001年に告示された「アレルギー表示制度」の前にさかのぼる。「もうすぐアレルギー物質を含む商品の表示が義務化される」という情報を受けた社内で、「食物アレルギー物質を使わない商品を開発したらどうだろう?」という意見が上がったのだ。
通常商品のアレルギー表示ですら、義務化を前に対応を迫られていた時代、当然現場からは、否定的な声もあがった。「卵、乳、小麦を使用しないで、今までと同じ品質は、簡単にはできない」「工場には卵、乳、小麦を含む原材料が大量にあり、コンタミ(微量混入)を防ぐのは難しい」など・・・。
しかし、担当者の努力によって、なんとか開発に成功。最初の開発商品、キャラクターレトルトカレーの販売に至った。ただ、通常の商品とは全く異なる管理が必要なため、多くのコストがかかり、企業としてこれ以上取り組むかどうか、判断を迫られる状況でもあった。
・・・存続を決めたのは、お客さまからのうれしい声だった。
販売したレトルトカレーは、予想以上に好評を博し、特にアレルギーのお子さんを持つお母さんから、感謝の手紙をたくさん寄せられる結果となったのだ。
「こういう商品を待っていました」「これからもこういう商品を増やしてください」などなど・・・。
「お客さまの声」は、その日のうちに社長や経営陣、関連社員に配信される永谷園。多くの人からのメッセージを目にした社長から、ある日コメントが発信された。
「アレルゲン不使用商品は市場も小さく、かつコンタミなどのリスクも大きい。しかし、この分野の商品を本当に必要とし、商品を支持して下さるお客さまがいる限り、永谷園にできる企業の社会的貢献として販売を続けていく。当たり前のことだが、特定の原料が不使用でも、『味ひとすじ』の理念に恥じないおいしい商品を作ること」と。
社長のこの指示から、永谷園の食物アレルギー配慮商品への本格的なチャレンジが始まったのだ。
こうして、まずは2003年5月に、食物アレルギー専門の「A-FREE(エー・フリー)委員会」が社内に発足。この委員会は永谷園独自のもので、社内の部門からの代表からなる、社内の横断的な組織で「企業内にありながら、あくまで消費者サイドで判断する独立した存在」という位置付けとなっている。この委員会を中心に、食物アレルギーに関する活動や団体に参加し、食物アレルギーについての情報や意見を収集、また食品メーカーの立場から対応を協議するなど、活動を広げている。
そして、2003年9月、食物アレルギーに配慮した、永谷園独自の専用ブランド「A-Label」シリーズの販売が開始されるのである。
「A-Labelシリーズ」誕生
「食物アレルギーを持つ方のご苦労を少しでも軽減し、安心して美味しく召し上がっていただける商品を提供したい」こうした思いで開発された、永谷園の「食物アレルギー配慮商品」。食品表示法で表示が義務づけられている特定原材料のうち、「くるみ・小麦・そば・卵・乳・落花生」を使わない商品シリーズ
2003年 (平成15年)
誰でも食べられるおいしい商品を
「A-Labelシリーズ」誕生
永谷園の「食物アレルギー配慮商品」は、食品表示法で表示が義務づけられている特定原材料のうち、
「くるみ・小麦・そば・卵・乳・落花生」を使わない商品シリーズだ。
「食物アレルギーを持つ方のご苦労を少しでも軽減し、安心して美味しく召し上がっていただける商品を提供したい」こうした思いで開発された、永谷園の「食物アレルギー配慮商品」。食品表示法で表示が義務づけられている特定原材料のうち、「くるみ・小麦・そば・卵・乳・落花生」を使わない商品シリーズだ。
中でも2003年に誕生した「A-Label」シリーズは、「大豆」、「香料・着色料」も使わない、永谷園独自のブランド。現在では、一般市販品のレトルトカレーやふりかけをはじめ業務用商品も開発をしている。
また、「A-Labelシリーズ」のほかにも、「食物アレルギー配慮商品」には、お子様に人気のあるキャラクター商品があるが、いずれの商品も、食物アレルギーをお持ちの方も、お持ちでない方も、すべての方が安心しておいしく食べられる品質を目指している。
通常の商品よりもさらに厳しい条件の中で、安全とおいしさを追求するために、どのような努力が続けられているのか。永谷園の取り組みを取材した。
■特別な体制で、厳重に管理された生産ライン
「食物アレルギー配慮商品」において、特に気をつけなければならないのがコンタミネーション(微量混入)。
アレルゲンとなる食物が、ほんの微量でも混入することがあってはならないので、厳重な管理と、通常商品とは異なる生産体制が必要なのだ。
永谷園では、原材料の調達から生産、さらには生産ラインの洗浄についても、その危険性を防止するための管理方法を確立し、「食物アレルギー配慮商品」の生産を行っている。
ふりかけなどのドライタイプのものに至っては、専用の隔離した部屋「A-Label」室を工場内に設置。室内の気圧を高く維持(「陽圧化」)することによって、微量のアレルギー物質の侵入も防いでいる。
さらに、生産の作業は決まった人物のみが行い、作業着や靴も専用のものを着用するなど、徹底的な管理体制が実行されている。
■ご要望に応えた商品を開発
お客さまからの反響が大きい「食物アレルギー配慮商品」。届いた意見を参考に、商品改良などの見直しが進められている。
例えば、発売当時はアレルゲンとしてあまり認知されていなかった「ごま」。ふりかけ、おむすびの素は、お客さまから届いた声や、ごまのアレルギーをお持ちの方が増えているという情報をうけ、原材料に「ごま」を使用していない品質に変更した。アレルギー配慮商品の専用コーナー設置を小売店に提案するなど、認知度アップと流通面強化にも力を注いでいる。
ここで、あるお客さまから届いたお便りを紹介したい。
「『A-Label』のふりかけを作っていただき、本当にうれしかった。卵、乳製品アレルギーのあるうちの息子でも食べられます。幼稚園のお弁当でお友達が口にしているふりかけが、自分も食べられるとわかった時の、息子の顔を忘れることができません。」
永谷園の努力は、こうしたお客さまの声によって支えられているのだ。
2004年 (平成16年)
「おみそ汁の大革命」誕生!
「若い人にみそ汁をもっと食べてもらいたい」という思いで始まった、永谷園の新しいみそ汁の開発。
大きな具材がヒットの秘訣!
2004年 (平成16年)
大きな具材がヒットの秘訣!
「おみそ汁の大革命」
■具だくさんのみそ汁を作りたい!
「若い人にみそ汁をもっと食べてもらいたい」という思いで始まった、永谷園の新しいみそ汁の開発。「若い人はどんなみそ汁が食べたいのだろう?」商品企画担当の頭に浮かんだのは、キャベツいっぱいのお母さんが作ってくれたみそ汁だった。
以前手がけた「減塩みそ汁」が好評だったことから、多少値段が高くても、具材たっぷりのみそ汁の決定版を作ろうと決意。こうして2003年7月、減塩みそ汁よりさらに具が多いみそ汁の開発がはじまったのだった。
■ブロック状に具をフリーズドライ
しかし、具材たっぷりのみそ汁の開発は難航。大き目にカットした野菜は、今までの手法だと、流通の過程でバラバラに崩れてしまうのだ。箸にひっかかるくらいの大きさで、「野菜を食べた」満足感が得られるようなみそ汁をつくる。これを実現するため、具材を全部ひとかたまりにしてフリーズドライする方法を採用した。
しかし、フリーズドライ製法でも、野菜によって適性・不適性があり、野菜選びは一苦労。中でもかぼちゃは乾燥が難しかったが、「かぼちゃは若い女性に人気があるので、絶対に入れたい」という思いで何度も試作を繰り返し、ようやく形が崩れずおいしく食べられるかぼちゃを実現した。また、ベースにも力を注ぎ、たっぷりの野菜に負けないように、鰹の風味や濃さを調整し、何度もブレンド。
…そして、開発着手から約8ヶ月後、お湯をかけるとみるみるふくらみ、お椀いっぱいに広がる「おみそ汁の大革命」が、とうとう誕生した。
■毎日50個以上考えたネーミング
商品名は、売れ行きを左右する大きなポイント。
袋を開けずに、商品の良さをわかってもらうには、インパクトのあるパッケージとネーミングが必要だ。商品企画担当は、電車の中、コンビニ、ファミレス、書店・・・ヒントとなるアイデアを四六時中考え、毎日50個以上の商品名を提案。たどり着いたのが「革命」というネーミングだった。社内で「革命」を提案すると「大」をつけた方がもっとインパクトがあるという意見が。こうして、「おみそ汁の大革命」という商品名に決定したのだった。
創業以来の思いをブランド・ステートメントに
創業以来続く「味ひとすじ 永谷園」という思い。今回、その思いが「ブランド・ステートメント」としてデザイン化されることになった。
この「ブランド・ステートメント デザイン」は、金赤のゴシック体で「味ひとすじ」の文字、さらに、「永谷園」の筆文字、永谷園の英文頭文字をモチーフにした「N」のデザインで、表現されている。
2005年 (平成17年)
永谷園サウンドロゴ誕生!
「サッサッ」という、小気味よい音。おなじみのお茶づけ海苔の袋からは、なんと永谷園の「ブランド・ステートメントデザイン」が飛び出す・・・。こんな、ユニークなサウンドロゴが登場した。
2007年 (平成19年)
悩める女性の強い味方、登場!
『「冷え知らず」さんシリーズ』
「生姜でポカポカカラダを温めよう」そんなコンセプトが大ヒットにつながった、「冷え知らず」さんシリーズ。女性の「冷え」という悩みにこたえる商品として、注目を集めている。開発担当者が、商品が生まれたきっかけや、開発エピソードについて語ってくれた。
2007年 (平成19年)
悩める女性の強い味方、登場!
『「冷え知らず」さんシリーズ』
「生姜でポカポカカラダを温めよう」そんなコンセプトが大ヒットにつながった、
『「冷え知らず」さんシリーズ』。女性の「冷え」という悩みにこたえる商品として、
注目を集めている。
開発担当者が、商品が生まれたきっかけや、開発エピソードについて語ってくれた。
■永谷園ならではの「健康志向」商品とは?
「女性にとって『健康』や『美容』は常に関心が高いもの。私も雑誌の特集などは必ずチェックして、モデルの食生活に注目していました。そして、いつしか「健康」や「美容」に関する商品を開発したいと考えるようになったのです。
『永谷園らしい商品って、どういうものだろう』、と、3年近く前から開発に取り組みました。当時ブームになっていたのが、「デトックス」や「マクロビオティック」。そこでまず、食物繊維のデトックス効果に注目した商品の開発に着手しました。」
さまざまな試行錯誤を繰り返した商品開発。
しかし、「食物繊維」や「デトックス」に関する商品は出尽くしている。それよりも、もっと永谷園のイメージである「簡単で、おいしく食べられるもの」を作ってはどうだろうか、と考えるようになった。
「いろいろと考えた末に出てきたのが、女性の悩みとして根強い『冷え』でした。特にオフィスで働く女性は夏場の冷房で体を冷やしてしまい、体調を崩してしまっている。そこで、夏場のオフィスにフォーカスし、働いている女性をターゲットにした商品を開発することになりました。彼女たちが毎日手軽においしく食べることができ、体が温まるものは何かと考え、体を温める生姜を使ったスープやみそ汁にたどりつきました。」
働く女性たちがお昼を買いに行く場所は、コンビニエンスストア。そこで、コンビニで置かれているカップタイプで開発が進められることになった。
■コンセプトとおいしさがうけ、予想以上の大ヒットに。
「生姜で体を温める」という商品コンセプトが明確に伝わるネーミングと、働く女性に向けたかわいらしいデザイン。ラインナップは、「担々」「コンソメ」2種類の味のカップスープと「とん汁」「生姜みそ汁」の4メニューに決まった。
「どのメニューも意外なほど生姜とよく合うんですよ。お買い求めになったお客さまからも、『生姜がたくさん入っていておいしかった』『強い生姜の味は、パンチが効いていてすごく良かった』など、好意的なご意見をたくさんいただきました。」
生姜を体感できるようこだわった味とバランスが、女性だけでなく、健康志向を高めている男性からの支持も集めているという。今後は、生姜の健康的なイメージだけではなく、『生姜本来のおいしさ』といった点などもアピールできる商品を開発中とのことであり、非常に楽しみである。
■そして「生姜部」発足へ
『「冷え知らず」さんシリーズ』をきっかけに、“生姜”という素材の価値に改めて気がついた永谷園。
そこで、“生姜”に本格的に取り組む「“しょうがの知恵”プロジェクト」が始動した。「生姜のプロ」となるために、商品を開発するだけでなく、実際に生姜を栽培したり、生姜の有効成分を研究、また生姜の情報を発信していくなど、取り組みはさまざま。
さらに、このメンバーを中心に、社内部活動「生姜部」が発足。社内の部門や職位を超えて、生姜についての知識と理解を深めたい、というメンバーが集まり、生姜の栽培からレシピの提案まで、幅広く活動した。
2009年 (平成21年)
消費者の健康志向に応えて、大ヒット!
「1杯でしじみ70個分のちから」
2009年9月。即席みそ汁に“オルニチン入り”という付加価値をプラスした、他に類を見ない「機能性みそ汁」が誕生した。
2009年 (平成21年)
消費者の健康志向に応えて、大ヒット!
「1杯でしじみ70個分のちから」
2009年9月。即席みそ汁に“オルニチン入り”という付加価値をプラスした、
他に類を見ない「機能性みそ汁」が誕生した。
消費者に支持され、一時は生産が追いつかなくなるほどのヒット商品となった裏側には、
どんな秘話が隠されているのだろうか?
■長年の研究が生んだ“金の卵”との出会い
その商品が生まれるきっかけとなる出来事は、2007年秋に起こった。アミノ酸の研究を行っていた永谷園の研究部で、アミノ酸の一種である「オルニチン」を生み出す特異な植物性乳酸菌が、キャベツの葉から偶然に発見されたのだ。その菌は「ラクトバチルス・ブレビス9E53」と名付けられ、商品開発への活用が検討された。
オルニチンは、食材の中では群を抜いて“しじみ”に多く含まれていることが知られている。そして、しじみと言えば、日本では、お酒を飲んだ翌朝に良いといわれる「しじみのみそ汁」が親しまれている。「オルニチン」⇒「しじみ」⇒「みそ汁」の連想から、さっそく即席みそ汁の商品開発がスタートした。
■商品開発は苦労の連続
まずは、この乳酸菌を利用したオルニチン味噌の製造に着手した。しかし、ここで早くも大きな障害が発生。この乳酸菌はみそ作りに欠かせない塩分に弱く、通常の製法では効率的にオルニチンが生成できないのだ。
みそメーカーに協力をあおぎながら、塩分によって乳酸菌のオルニチン生成が妨げられないような特殊な製法を確立した。
まだまだ難題は続く。出来上がったみそは乳酸を含んでいるため、どうしても酸味が出てしまうのだ。だしの風味を強めるなど工夫を重ね、ようやく酸味をおさえたまろやかな味に整えることに成功した。
こうしていくつものハードルを乗り越えながら、1食当たりしじみ70個分に相当する25mgのオルニチン含有する、全く新しい「機能性みそ汁」が誕生したのである。
■商品の魅力を伝える工夫の数々
ただし、消費者にこの商品を届けるためには課題があった。専門家にはよく知られたオルニチンだが、多くの消費者にとっては初めて聞く名前。そこで、開発担当者は、親しみやすさと強いインパクトを持つ「しじみ70個分」をネーミングに採用した。
さらに、二日酔いの朝に飲まれる「しじみのみそ汁」を元に、「お酒」のキーワードも打ち出すことに決定。パッケージは即席みそ汁には珍しい黄色を採用し、「お酒好きのあなたに」というコピーを添えた。
こうして2009年3月、よくお酒を飲む30代の男性をターゲットに、カップみそ汁「一杯でしじみ70個分のパワー」がコンビニでテスト販売を開始した。
■一時品薄となるほどの大ヒット商品に
でき映えに手応えは感じていたものの、売れるかどうかは未知数だった新商品。しかし、これが予想を上回る販売量となった。特に意外だったのが、女性からの支持。健康的なイメージのある「しじみ」に、女性たちが引きつけられたのだ。
この反響を受け、2009年9月からついに販路をスーパーなど全流通に拡大。ラインナップには、カップタイプの他に大袋タイプのみそ汁を用意したほか、スープとお吸い物も追加した。
さらに女性を意識して、ネーミングを「一杯でしじみ70個分のパワー」から「1杯でしじみ70個分のちから」に変更するなど、手にとってもらうための小さな工夫を重ねた。
こうして売り出された「1杯でしじみ70個分のちから」シリーズは、まさに“飛ぶように売れる”大ヒット商品に。即席みそ汁売場だけではなく、お酒の関連商品として酒類売場にも並べられ、大きな売上を記録。発売後約1ヶ月で生産が追いつかなくなるほどだった。
■新たなラインナップも加わり、ますます充実
消費者の健康志向にマッチした「1杯でしじみ70個分のちから」シリーズは、その後も順調に売上を伸ばし、発売1年足らずで、同じ永谷園のロングセラー「あさげ」に匹敵するほどのブランドに成長した。「毎日飲みたいから」とまとめ買いする人も多いという。
2011年1月には、シリーズの新メニューとして「しじみ茶づけ」も登場し、ますます充実のラインナップとなった「1杯でしじみ70個分のちから」シリーズ。今後も強まると予想される、消費者の健康志向に応え続けるため、さらなる期待が寄せられている。
2012年 (平成24年)
忙しい主婦の味方
「お肉マジック」誕生!
「お肉マジック」のヒットを受け、翌年には姉妹品である「お魚マジック」を発売。メカジキやタラを使って作る「タルタルフィレオ」など、子供が喜ぶメニューをラインナップした。日本人の魚離れに一石を投じる商品としてこちらも評価が高い。マジックシリーズは、そうざいの素市場に新たなカテゴリーを創造したと言えるだろう。
2012年 (平成24年)
忙しい主婦の強い味方
「お肉マジック」
毎日の献立作り、とりわけ食卓の主役となるメインディッシュを何にするかは
主婦にとって大きな悩みの種である。
そんな主婦の悩みを解決すべく、開発担当者たちは新たなそうざいの素の開発に挑戦した。
■手間のかかるメインディッシュを簡単に
メインディッシュは材料の準備や調理に手間がかかるもの。
そこで「家庭によくあるお肉を使って」「手間のかかるメインディッシュが簡単に作れる」を新商品のコンセプトとした。
数々のメニュー候補から選ばれたのは、「角煮」「かつ煮」「鶏唐」の3つ。
いずれも定番の肉料理であると同時に、長時間煮込んだり油で揚げたりと手間のかかるものばかりである。
■創意と工夫でマジックを実現
これらの料理をいかに手軽においしく作るか。
開発担当者たちは、品質、作り方などあらゆる面からさまざまなアイデアを投入した。
たとえば「角煮風」は、短時間で仕上げるために、豚バラスライスを何枚も重ねて切り、「角煮の素」をまぶし、「調味ソース」で煮ることで、角煮さながらのボリューム感とコクのある味わいを実現した。「かつ煮風」は、揚げた感じを出すために豚バラスライスにまぶす衣に食感用とつなぎ用の2種類のパン粉を使用。「鶏唐風」は、お茶づけの素に入っている粒状のあられを鶏もも肉にまぶすことで衣のカリカリ感を表現した。
こうして完成した商品は、「使用する食材は、家庭によくある豚バラスライスや鶏もも肉」「調理器具はフライパンひとつ」「調理時間はわずか数分」「家族全員が満足できる味とボリューム」という、まさに「マジック」と呼ぶにふさわしいものであった。
それまでにない商品だけにパッケージでの伝え方にも工夫を凝らした。できあがった料理を箸でつまみ上げる写真を大きく配置し、おいしさ感を表現。そして、通常は裏面に記載されている「作り方」のイラストを表面にも記載し、わずか3ステップで作れることをアピールした。
■そうざいの素市場に新たなカテゴリーを創造
「お肉マジック」は発売と同時に流通、消費者から大きな歓迎を受け、好調な売上を記録。スーパーではそうざいの素コーナーだけでなく、精肉売場での関連販売もさかんに行われた。購入者アンケートでは「手間のかかる料理が短時間でできて便利」「簡単でおいしく、家族が喜んで食べてくれる」といった感想が多く寄せられ、商品のコンセプトが確実に受容されていることがうかがえる結果となった。
「お肉マジック」のヒットを受け、翌年には姉妹品である「お魚マジック」を発売。メカジキやタラを使って作る「タルタルフィレオ」など、子供が喜ぶメニューをラインナップした。日本人の魚離れに一石を投じる商品としてこちらも評価が高い。マジックシリーズは、そうざいの素市場に新たなカテゴリーを創造したと言えるだろう。