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- お茶漬け(お茶づけ)の歴史
お茶づけは(遣唐使を派遣していた)平安時代からあった!?いえいえ、これは江戸時代に作られた川柳。
しかし、お茶づけのルーツはそれぐらい古いものです。
これからさまざまな史料をひもときながら、お茶づけの歴史をたどっていきたいと思います!
- 平安時代
- 鎌倉・室町時代
- 江戸時代
- 現代
平安時代の文献にしばしば登場する「水飯」や「湯漬け」は、ご飯に水やお湯をかけた、
手軽な食事のことで、お茶づけのルーツであるといわれています。
ちなみに、当時、米は甑(こしき)という調理器具で蒸しあげた「強飯(こわいい)」が主流でした。硬くて粘り気のないものだったそうです。
(一方、現在のように釜や鍋で炊いた米は「姫飯(ひめいい)」といいました。)
『今昔物語集』には、三条中納言という人物が、肥満解消のために医師の勧めに従って「冬は湯漬け、夏は水漬け(=水飯)」を食べるという話が残されています。しかし、彼は干し瓜や鮨鮎をおかずに大盛りの水飯を何杯も食べるありさまで、結局ダイエットには失敗してしまうのですが、当時「お茶づけ(ならぬ湯漬け)でダイエット」の発想があったことには驚きです。
戦国武将織田信長と斎藤道三の初対面は、湯漬けを食べながらの一席となりました。
このように、鎌倉時代から室町時代にかけて、簡便な湯漬けは武家の間で愛好されました。中でも湯漬け好きとして知られるのが、室町幕府八代将軍足利義政。彼が酒に酔ったときにご飯にお湯をかけて食べたことから、湯漬けを食べる習慣はいっそう世間に広まったといいます。
後には「おかずは香の物から食べはじめること」「汁は最初に飲まないこと」など、湯漬けの食べ方にもさまざまな約束事が作られるまでになったそうです。
ところで、ここまでは「湯漬け」はあっても「茶漬け」は出てきません。というのも、
お茶が普及したのは、室町時代後期以降のこと。お茶が庶民のものになるに従って、
お茶づけにお茶をかける習慣も広がっていきました。
しかし、当時人々が飲んでいたのは、色が赤黒く味も
香りも薄いお茶でした。
現在のような緑色で味のよい煎茶の製法は、
江戸時代中期に完成したものです。
そして、長い苦労の末にその製法を開発したのは、
永谷園の祖先である永谷宗円でした。
ここで登場する「茶漬めし」は、ありふれていること、容易なことのたとえ。
こんな言葉が生まれるほど、江戸時代に入ってお茶づけは庶民の日常生活にすっかり浸透しました。
当時の炊飯は一日一回が基本。江戸では朝にご飯に炊き、夜はお茶を沸かして冷やご飯にかけて食べていました。一方、上方では昼にご飯を炊き、翌朝は冷やご飯にお茶をかけて食べる、という食生活が一般的だったようです。
また、江戸の町にはお茶づけを主として簡単な料理などを出す「茶漬屋」も出現しました。元祖は元禄期(1688-1704)、江戸金竜山下の「奈良茶屋」と言われています。そして江戸時代後期になると、江戸の各地に名物のお茶づけが誕生しました。
『寛天見聞記』に、八百善という料理茶屋で酔狂な客が極上のお茶づけを注文したところ、半日かけて玉川からお茶に合う水を飛脚に運ばせ、一両二分という代金に客がびっくりしたという話が残っています。
お茶づけは庶民の手軽な料理として親しまれた一方で、水や具の取り合わせにこだわった本格料理としても発達しました。
1952年(昭和27年)、「お茶づけ海苔」が発売されます。
開発したのは、永谷宗七郎(宗円)から数えて10代目にあたる永谷嘉男。
永谷嘉男は、品質からデザインの細部に至るまで工夫をこらし、「お茶づけ海苔」を完成させました。
戦後の混乱期から次第に復興してきた頃で、世の中は、空腹を満たすことからおいしく手軽に食べることを求めるスタイルになっていました。ご飯にお湯を注ぐだけでおいしいお茶づけが食べられるとあって、「お茶づけ海苔」は大ヒット商品となりました。
お茶づけの素の登場によって、お茶づけはより身近で、手軽に、おいしく食べられるようになりました。
現在は、だしにこだわったお茶づけ、夏場にぴったりの冷やし茶づけ、お土産専用のお茶づけなど、お茶づけの世界は大きく広がっています。
2012年永谷園は、永谷宗円の命日である5月17日を「お茶漬けの日」に制定しました。
お茶づけ普及の裏には、彼が長年の苦労の末品質のよい煎茶の製法を発明し世に広めた功績があったことを忘れてはなりません。
2022年は、「お茶づけ海苔」誕生から70周年という節目の年。70年間で皆様にお買い求めいただいた永谷園のお茶づけの素商品全体では、なんと270億食以上にものぼります!お茶づけは世代を超えて愛される国民食に成長したと言えるでしょう。